Yoshinao Komura

古村義尚について

プロフィール

1937年
青森県に生まれる
小学生の頃
工藤勝衛氏にピアノの手ほどきを受け、ピアノに向かう姿勢やその人間性に大きな影響を受ける。
上京後
水谷達夫、ポール・ビノグラドフ、ジョン・ハントの諸氏に師事。
1960年
武蔵野音楽大学ピアノ科を主席で卒業。
1961年
武蔵野音楽大学専攻科修了。専攻科在学中、初めてのリサイタルを開催。
1962年~1970年
ABC交響楽団所属。
1965年
ヴァイオリニスト諏訪根自子氏と共演。
1970年~1991年
東京音楽大学において、ピアノ個人レッスンの他、ピアノ演習、アンサンブル等の授業を受け持ち、数多くの演奏家や教育者を育てる。
1971年
マンドリン界の巨匠ジョゼッペ・アネダ氏日本公演の伴奏を務め、日本グラモフォンよりLPを発売。
ロシア音楽研究の為、旧ソ連を訪問。滞在中にピアノ曲「バラード ”x”」を作曲する。
帰国後、声楽家の伴奏で、コロンビア、東芝よりLPを発売。
1973年
名曲の生まれた国々、特にヨーロッパを中心とした旅をする。
1975年
外務省、国際交流基金の文化使節として今井久仁恵氏と共に派遣され、メキシコ、パナマ等中南米6カ国で演奏をし、絶賛を博す。
1975年~1991年
東京ピアノ・アンサンブル・グループを発足させ、その頃まだ一般的でなかった二台のピアノの演奏会に情熱を傾け、二台八手を中心に、二台四手、二台十二手の作曲、編曲をする。また、それ以前に書いたピアノ、ヴァイオリン、マリンバ、室内楽、声楽等の曲を二台ピアノ用に編曲をする。現存する楽譜は、作曲と編曲を合わせて132曲。
1976年
日本スペイン歌の協会の発足に力となり、幹事となる。
1982年
二回目の外務省、国際交流基金の文化使節として今井久仁恵氏と共に派遣され、ホンジュラス、アルゼンチン、ブラジル等で演奏をし、絶賛を博す。
1986年3月
脳腫瘍で倒れ手術。4カ月間半の入院生活をするが、翌年すべての仕事に無事復帰。
1991年7月
その一週間前まで演奏会に出演していたが、脳腫瘍再発の為、20日、帰らぬ人となる。享年54歳。一流ソリストの伴奏、共演、室内楽等の演奏会は2200回以上に及ぶ。
1993年12月
「古村義尚作品集」が出版される。

サイドストーリー

古村義尚氏の夫人、朝霞氏の文章による

  • 決して高望みせず、しかし、思い描いた事は必ず実現させ、毎日を寸分の無駄なく生きた人でした。
  • 幾つもの仕事を同時進行させながらの、とても忙しい人生を駆け足で過ごしました。特に,1975年に東京ピアノ・アンサンブル・グループを発足させてからの約15年間は、演奏家としての人材を育て、ほとんど知られていなかった二台ピアノの曲作りをすることに情熱を注いでおりました。
  • 「くるった時計」と「ワルツミュゼット」は、アンコール用に二台十二手に編曲されました。それまで、ずうっと譜めくりをしていた人が、プログラム最後の4人の演奏者に急に加わり、6人で弾き始めますので、客席が一瞬はっとさせられます。その奇を衒う悪戯心は、とても主人らしいものでした。

今も門下生の心に残ること

  • とにかく大きい先生。身長180cm、指は長くて鍵盤10度を楽に弾くことができました。
  • 話し方は、高めの声で柔らかでした。レッスンで生徒に声を荒げたことはなく、はっぱをかけるときは、「○○さん(同学年の他の生徒)は、もうバリバリ弾いているよ。」とやんわりと焦らせてくれました。
  • 何気ない先生の言葉には、信念と真理がありました。
    「10回で弾けない人は100回弾くんだよ。」→ やることをやらないで出来ないと諦めてはいけない。
    「下手な生徒ほどかわいいんだよ。」→ 落ち込む必要はない。堂々と弾きなさい。上手くなりたいという気持ちが大切。
    「下手な生徒を上手くするのが喜びなんだ。」→ 僕はとことん教えるよ。原因を改善する指導をすれば良い演奏になっていく。
    「色気を出して弾くと良い演奏にならないよ。」(この場合の色気とは、一番になりたい。とか、賞をとりたい。といった欲のこと。)→ 音楽と真っ直ぐに向き合って集中して弾きなさい。
    「自分の演奏の録音を聴いて上手いと思ったら、もう成長が止まっているということだよ。」→ 幾つになっても勉強し続けなさい。
  • 飲んで食べて語らうことが大好きでした。演奏会の前は前祝い、後は打ち上げ、その他いろいろ飲み会があり、「○○さん、食べてる?」「○○さん、飲んでる?」「もっと食べなきゃいい音出ないよ。」と声をかけてくれました。また、大勢参加していても一人参加できない生徒がいるととても残念そうでした。
  • ピアノの練習だけでなく減量も「カロリーは点数で計算するんだ。」とストイックでした。
  • 青森県下一の高校で数学が得意であったという先生の理数系の考え方は、ピアノにも表れていました。特にハノンの練習方法は先生の経験を基に考えられたもので、昭和64年の門下生への年賀状に詳しく説明されています。

以下が手紙の抜粋です。

『ハノンはピアノの基礎であり,人生上のすべての事に通じるものだと思っております。私は,今のハノンの練習方法になって30年以上たちます。
ハノンの練習方法を簡単に紹介しますと,一日30分位で,前半の15分をNo.1~No.20とNo.21~No.30を一日おきにfでゆっくり弾きます。最初の音を一日半音ずつ上げ,更に一番毎に半音ずつ上げていきますので,24日間で全調した事になります。後半の15分はNo.39, No.46, No.49, No.50, No.54, No.59を毎回弾きます。これは誰に教わった訳でなく,自分で考え出した方法です。又,一番良い方法だと思い, 私のレッスンには付点練習と共に取り入れてきました。
ちなみに一日30分のハノン練習を平均週5日したとしたら,週2時間30分,月10時間,年120時間,30年で3600時間弾いた事になります。これを日数に変えると約150日になります。5ケ月間,食事もせず,眠らず,弾き続けた事になります。
私は現在迄ピアノを弾き続けてこられた原点はこの辺に有ると思い,今では,この事を誇りに思い,幸福な人生を送ってこられたと,本当にピアノが好きなんだなあと,思っております。
一旦,ピアノの道を志したからには頑張りましょう。今は,若いので当たり前と思っている事でしょうが,その事を今の私と同じ50才過ぎた時に思い続けていられるでしょうか?
昭和64年元旦 古村義尚』

「僕の年になっても弾いてられるかな?」とは、先生が度々口にされた言葉です。
『幾つになっても弾いていて欲しい。そのためには、こういう努力が必要です。』
生涯現役を貫いたピアニストの熱い思いが込められています。